世の中に悪い人はいない

若くて顔のいい男の生気を吸って生きる魔女が理性ゼロで書いてる。

読書感想文『ひらいて』~愛という透明な概念について~

 

 

ここに「愛」という作品がある。

 

額縁だけは大層立派だが、そこには「愛」と書かれた札しか置いていない。
そこに何か絵があったはずだと誰もが思っているが、どんな絵だったのかは朧気で、私の記憶も、あなたの記憶も、誰の記憶とも一致しない。

 

思うに「愛」とは絵のない額縁のようなもので、本質などない空っぽの入れ物なのではないか。

 

 

 

お世話になっております。らっこです

 

読書感想文『ひらいて』~愛という透明な概念について~

※作品のネタバレ要素を大いに含みます。未読の方はご注意ください。

 

 

西村たとえと主演俳優作間龍斗

作品全体を通して、情景を用いた比喩表現がとても多いと感じました。

動き、風景、心情の描写ひとつひとつが大変詩的で厳かです。物音がしない水の中をただよっているような、静かでどこか夢のような世界に引き込まれたような感覚でした。

 

凝縮された悲しみが、目の奥で結晶化されて、微笑むときでさえ宿っている。本人は気づいていない。光の散る笑み、静かに降る雨、庇の薄暗い影。

存在するだけで私の胸を苦しくさせる人間が、この教室にいる。さりげないしぐさで、まなざしだけで、彼は私を完全に支配する。

 

これは作品の冒頭の一文なのですが、震えました。私的な美しさはもちろんのこと、西村たとえを演じる作間龍斗君を知っているからこそ震えました。

私達はこの目を知っている。作間龍斗という人間がもつ美しい諦念を、こんなにも的確に、詩的に表現した文章があるのかと。

しかも作者の綿矢りさ先生は作間龍斗を見てこの文章を書いたのではなく、綿矢りさ先生が生み出した西村たとえをイメージしてこの文章を書いています。

この一文だけで、作間君が主演に抜擢された理由が分かった気がします。同時にこの小説にはきっと幸せな結末が用意されていないであろうことも、湿り気のある文章から予感させました。

この小説は主人公の女子高生の視点で進んでいくのですが、主人公はなんて繊細で豊かな感性を持っているんだろうと舌を巻きました。文字書きとしては嫉妬します。

モネやルノワールなどの「印象派」と呼ばれる作家は自分の目に映った印象を自分が感じたまんま見たまんま表現しようとした人たちです。主人公フィルターで見たたとえの印象が景色や具体物の比喩で証言されているのを見て、印象派みたいな感性だなあなんて思いました。

 

主人公は同じクラスのたとえ君に思いを寄せていますが、手の動きや細やかなしぐさのひとつひとつに心惹かれています。

いつからだろう。授業中、ひまさえあれば彼を見るようになったのは。図体の大きい彼が小さなシャープペンシルを握って、ノートになにか書き込んでいる姿を見るたび、その際に指の付け根を唇に押し当てている仕草を見るたび、胸の奥がきしんだ。あまりしゃべる人ではなかった分、彼の手は彼の口より、よほど饒舌だった。

たとえばだれかと話をするとき、ときおり彼は、神様に祈るように両手の指と指とを組み、関節が白くなるほど力を込めた。笑顔でいても、他愛ない話題でも、その仕草が出たときは、彼が緊張しているのだと分かった。教室で一人でいるときは、いつも首の後ろに手を当てていた。所在なくて不安なんだろう、と私は勝手に推測した。顔色も変わらないのに、静かな瞳をしているのに、手だけは彼の心もとなさを、繊細に表していた。

文庫本の8ページから9ページの見開きいっぱいに語られるたとえ君の心惹かれてどうしようもない仕草が、驚くほど作間君に被ってきます。作間君も話すうえでやや口下手な印象がありますが、手はとても饒舌です。

 

 

「若さ」とはなにか

そして私がたとえ君と作間君のリンクを強く感じたのは、「諦念」です。

これはたとえ君がクラスメイトに志望校が難関大であると話し、揶揄された時の描写です。

なにを言われても彼は笑って受け流していた。その笑顔を見て私はさびしくなった。そうだ、なにも驚くことはない、気にしなくて当たり前だ。彼の心はもうこの高校の教室には無いんだから。次のステージに上がる目標を見据えているから、いま現在の生活は、彼にとっては既に過去なのだ。

 

雑誌のインタビューなどで作間君の「今誰かと付き合っても、いつか別れることになるだろうから重くとらえないでほしい」や「猫が飼いたいけど亡くなった時悲しいから飼えない」などの言葉を見て、ああ、作間君は始まった瞬間に終わりを意識してしまう子なんだなと思った記憶があります。まだ高校生なのに。

 

そしてこれはたとえの彼女である美幸が、たとえのどこが好きなのかと問いただした主人公に語った言葉です。

「教室にいるとね、私達は浮いちゃうの。みんなと一緒にいても、努力するんだけど、気づいたら離れて外から眺めている。魂が抜けたような無表情で見ちゃうの、輪に入れなくて」

「うん。でもただなじめないというだけじゃなくて、私と彼は輪に入りたいと思いながらも、どこかでもう諦めてしまっているの。同い年の人たちに囲まれていても、みんなの明るく強い笑顔や、自分の可能性と今までの通りの幸せを信じきれる強さを、ああ懐かしいなと思ってしまうの。私たちにはもう戻ってこない時代だなって、大人ぶるわけでも人より早く成長したつもりなわけでもないけど、ただそう感じるの」

私は、若さというのは向こう見ずであるということだと思っています。

これが将来何の役に立つかなんて考えず一心不乱に砂場で遊ぶ子どもも、明日のバイトのことなんか置いといて夜通し飲んで騒ぐ大学生も、「今」のために「今」の時間を使っている。

大人は少し賢くなってしまうから、明日叱られないためにいろいろ手を打つし、将来のために今我慢して貯金するし、未来の出世のために今遊びたい気持ちをこらえて残業する。「未来」のために「今」を消費するようになる。

 

「今」を生きていながら意識は「未来」にあるたとえ君と作間君は、ある意味今を諦めている大人なんじゃないだろうか。まさに諦念です。周りよりもずっと早く大人になってしまった18歳。

 

『オートリバース』*1の直と高階は「今」のために「今」を生きていたから、大人からしたら「そんな無茶な」と思うこともしていたし、『ひらいて』の主人公も大人から見れば「そんなことしたらたとえ君にかえって嫌われるの何て目に見えてるのに」「いやそんなことしたらめちゃくちゃ拗れるだろ」と思うような衝撃的な行動を次々かましていきます。

どちらの小説も主人公の行動が向こう見ずな分、事態は思いもよらない方向に拗れていくし、痛い方向にずんずん進んでいくし、それでも歩みを止めないから主人公はどんどん傷ついていって、「めでたしめでたし」にはならない「結局これはなんだったんだ」「これでよかったんか」な結末になります。

 

『オートリバース』の言葉を借りると、海を飛ぶトンボがそこを海だと知った時が若さが消えるときだと思います。無鉄砲で、無知で、今のために今を生きる姿が若さ。
飛んでいるうちに大人になります。そこが果てない海だと知って、ある意味絶望します。そこが海だと分かったら、落ちないように飛ぶ手段を考えなくてはなりません。「未来」に意識がもっていかれてしまいました。
端から直と高階を見ている大人は思います、トンボを落ちないように飛ばせてあげたいと。高階もどうかすれば直と一緒にいられたんじゃないかと。
でもそれはきっと、オートリバースが苦手な髙橋と直が嫌がる思考です。
若さを失わないと生きていけないけど、失ったらもう戻れない。

「今」のために「今」を使う人は命を削りだしたような言い知れないエネルギーを感じる。心を掴まれる。
若さって尊い。いくらか賢くなってしまった大人の私にはその無鉄砲さが危うくてハラハラして、たまらなく羨ましいです。

 

 

きっと大人になる前には、諦めを知るきっかけになる出来事があるんです。たとえにとっての家庭のこと、美幸にとっての病気、そして、主人公にとってはこの高校生活最後の恋。作間君にとっては……

主人公も大人になってしまうと思うと、ほっとしたような悲しいような気持ちです。

 

「愛」という概念

小説を読み終わって思ったのは、結局愛って何なんだということです。

答えに迷った私は、作間君のファンである友人と小説の感想を語り合いました。その友人はこう言いました。

 

「主人公はたとえ君のことが好きって言ってるけど、たとえのためには動いていないよね。付き合いたいっていうより、たとえ君が欲しかったんじゃないかな」

 

なるほど確かに。付き合いたい、という感情なら「付き合ってこんなデートしたい」とかいう具体的な願望が出てきてもよさそうなものを、主人公はたとえの姿や仕草に陶酔しているだけでそんな願望が見えてこない。崇拝か憧れのような気持ち、果たしてそれは愛なのか?

 

主人公は物語の前半でこうも言っています。

だれかが私のそばを通り過ぎてゆくとき、私はいつも、それが見知らぬ人であっても、相手の手をつかんで立ち止まらせたくなる。さびしがりのせいだと思っていたけれど、恋をして初めて気づいた。私はいままで水を混ぜて、味が分からなくなるくらい恋を薄めて、方々にふりまいていたんだ。いま恋は煮つめ凝縮され、彼にだけ向かっている。

もはや恋と愛の違いってなんだっていうよくある議論に立ち戻ってしまった。頭を抱える私にまた友人は言います。

 

「でも現代文の授業の音読のシーンで、たとえ君が「たとえ五千年の歴史が、どんな誤りを犯していても」って文を読んでるんだよね。これ、主人公のたとえ君への恋心が過ちだったのかなって思って」

 

言われて文庫本の13ページをめくって唸った。確かに、主人公のたとえへの強烈な恋心を示唆する比喩表現の後に、やや不自然な文脈で「たとえ五千年の歴史が、どんな誤りを犯していても」が再度登場している。

主人公の思いは恋なんかじゃなく、所有欲・支配欲だったという結論?美しいものを自分の思うままにしたい、美しさを自分の手で歪めたいという欲。まさに若さすぎる、そうかもしれない。

と思いつつ小説を読み返していたら、愛がこんなことを言ってましたね。

どうか、傷ついてほしい。傷で私とつながってほしい。困惑するなんて大人の対応は要らない。腹を立て、幼稚な嫉妬にかられて、私につかみかかってくれないか。

苦しみ、手に入らない苦しみ。手に入れればまた別の苦しみが始まると分かっているが、飢えている今、どうやって求めるのをやめればいいのか。けど、手に入っていないときの不安を楽しむなんて、私にはできない。

 

美幸は「大切な誰かのために生きたい」と言い、たとえは「美幸が自分とは違う世界にいるから、好きになった」「彼女を守れば、おれ自身もその苦しみを共有しているかのような世界を錯覚できる。だから好きになったのかもしれない」と言います。

美幸の愛とたとえの愛は、きっと混ざり合うべくして混ざり合った愛です。

たとえは美幸を守ることで満たされ、たとえが満たされれば美幸もまた満たされます。見返りなんて言葉が入り込む隙もない、愛です。高校生にしては悟りすぎ感はある。

 

この小説は、主人公から見た「愛」の物語であると私の中で結論付けることにしました。

 

まだ「愛」を知らない少女が、たとえと美幸の姿から崇高な愛を知る物語。

どんなに世界から疎外されても、意図して傷付けんとされても、切れない2人。

 

 

ここに「愛」という作品がある。

 

主人公は「愛」という額縁の中に、たとえと美幸の姿を見たのではないだろうか。

そして私たちは、主人公の繊細な感性のフィルターを通して見せられる「愛」を味わった鑑賞者の一人。

 

だから主人公の名前は、木村愛なのではないか。

 

 

でも、きっとこれは読む人にとって解釈は全然異なると思う。『ひらいて』を読み終わった人に愛って結局なんだと思うか聞いたとて、私と意見が一緒の人がいるとは思えない。

 

だから「愛」は額縁しかない作品なのだ。額の向こうは、人によって、時代によっていつも異なるものが見えている。美しかったり、目も当てられないような凄惨なものだったり、いろんなものが見えている。

 

概念はたくさんの舞台物を抽象化することで獲得していくものだ。「犬」という概念を獲得することは、ゴールデンレトリバーやらチワワやらトイプードルやらの具体物たくさん見て、「毛が生えていて四足歩行で大体ワンと鳴く」みたいな共通の特徴を抜き出して「犬」って概念でくくる作業だ。「犬」って言えば具体的なものを見せなくても大体聞き手には「こんな感じのものよね」が伝わる。概念を共有していると効率的だから人は具体物をどんどん概念化していく。

 

でも、愛には共通の具体物が存在しない。愛することが身体接触な人もいれば、言葉を交わすことな人もいれば、「殺すということは、愛するということじゃないかしら」という文学者もいる。

 

このひとくくりにできない「愛」という概念が、現代人が大好きな効率化から永遠に逃げられる概念な気がしていいなーと考えすぎて煮詰まった脳でぼんやり思っています。

 

 

いつか「ひらいて」という言葉の、真意が掴めないのに、鳥肌が立つほどの禁句と甘美さの正体が分かるといいなと思っています。映画の公開がひたすら楽しみです。

 

5700字書きなぐってもまだうまくまとめられないのヤバいし読書感想文として崩壊してるけど、映画見た後に解釈の自己解決の材料にするための手記として残しておくこととします。読み苦しいブログでごめんなさい。

 

正直まだまだ語り足りないので読んだ方々のいろんな解釈が聞きたいです。よければコメントや引リツなどであなたの見解を聞かせてください。

 

 

 

さて、尻切れトンボですが次回予告です。

 

さまよう刃」読書感想文

 

『ひらいて』に魂抜かれてる間に瑞稀君の出演作品のドラマ配信日が迫ってきていました。やっべ。

というわけでまたも原作予習シリーズです。本は手元にありますがまったくページをめくっていません。まさに今から読みます。なのでブログのタイトルも決まっていません。書けるかどうかも分かりません← 次回予告詐欺になったらごめんね。

 

次回もよければお付き合いください。

*1:映画『ひらいて』で主演を務める作間龍斗君が同じくHiHi Jetsのメンバーの猪狩蒼弥君と共に主演を務めたラジオドラマ。原作は高崎卓馬さんの小説